隣人は選べない!?

カリフォルニアに住んでいた私たち夫婦は、米国本土を離れることなど考えてもいませんでしたが、911の”あの日”を堺に、人生は大きく動きだしました。
ビッグアイランド(ハワイ島)に移り住んだ私たちは、数年前まで、お寿司屋を営んでいました。
今日は、”ハワイ島”へと移り住んだ時の”私たち夫婦の住まい”のお話です
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ハワイへ引っ越しをするといっても、知人も友人もおりません。
まずは、二度ほど休暇をとり、旅行がてら各島をまわりました。(各島の不動産屋とコンタクトをとり、家も見に行きました)
その後、どこに住んでどのように生活をするか。本土には戻らないつもりで何度となく話しあい、最終的にハワイ島を選択。
なぜビックアイランドだったのか?と、聞かれても、当初、明確な返事はできませんでした。うちの寿司屋に来てくださるお客様にもよく聞かれ、そのたび、”流れのまま”と答えていました。そして、ハワイ島を離れた今も、答えは出てきません。www
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さぁ、引っ越すといっても海を渡ります。もちろん、ハワイの住宅事情も分かりません。
いきなり家を買うのも冒険です!よね?w
時は、”リーマンショック前”。
ハワイの不動産もジワジワと沸騰しかけています。
しばらく様子をみようと、ワイコロアという小さな町で、コンドミニアムを借りました。(賃貸といえど、高かった〜…(^_^;)〜w..ハワイは、全米でも指折り数える物価高な場所です)
ワイコロアビレッジという小さな村のコンドミニアムは、4軒が一棟のコテージタイプの建物が、間隔をおいて建っていました。
私たちは、そのひとつコンドミニアムの2階に住んでいました。

一階の住人は、物腰の柔らかな生粋のハワイアン一家でした。
大人数での暮らしぶりの長は、グラディス(仮名)という名の”おばあちゃん”。
彼女は大いに私たちのことを気にかけ、折りに触れ、家族の行事にも呼んでくれたりと、それはよくしてくれました。
一年くらい過ぎた頃だったでしょうか。
ある日、グラディス一家は、三世代でお金を出し合い、
ミリオンもする大きなお家へと引っ越してゆきました。
バブルが弾ける前の高値の絶頂期の時でした。
あの頃は、しばらく金利だけ払えば大丈夫!今が買い時などと無責任なことを不動産屋のおばちゃんたちは言いました。それに乗ったハワイに住む人々だけでなく、アメリカ本土のお金持ちはもちろん、世界中の多くの方がこの時、ハワイに家や別荘を買い、失った方も多くいます。(哀しいことに、リーマン・ショック後、グラディス一家の行方も行方もわからなくなりました)
おばあちゃん一家が引っ越したあと、お子さん二人と夫婦の四人家族が引っ越してきました。ほどなくする間もなく、階下の庭からベランダごしに煙がのぼってくるようになりました。
最初、ベランダでタバコを吸っているのだと思いました。ですが、なんだか臭ったことのない煙です。
そのうち、ワイワイがやがや度もまし、モクモク度が激しくなり、
窓をあけていると喉がやられ目もシバシバいたみます。
人も朝もはやくから夜おそくまで、次々に車がやってきました。
笑い声が響いたり飲み会をしていたかと思えば、ちょっと争っているような感じだったこともありました。
しばらく観察していると、どうやらその煙が出るものとお金を交換しているようです。
そう、彼は、麻薬のバイヤーだったのです。
ハワイ島ではよくあることですが(^_^;)間近にいるのはいただけません。煙もイヤですし、何より知ってて知らないふりも、チクるのもいかがなものかな状況です。環境的にベリーバッドな極面です。
※補※ ホノルルのとある学校で、先生が生徒に麻薬を売って捕まる…そんなニュースが流れるハワイです。^^;
アパートやコンドは、上下左右の人をこちらで選ぶことはできません。(教訓:最初よくてもずっとその状況が続くわけではないw)
触らぬ神にたたりなし!?

夜な夜な近く・・・といっても、300mは離れている溜池の循環ポンプ?のようなところから聞こえるキーンと音波にも私だけ悩まされていました。(歳を重ねるごと、聴覚と嗅覚が異常に敏感になる私(T_T))
「ここを去る時期が来たってことだよね?」などと主人と相談。
次なる住まいを決め、最初のコンドをあとにしたのです。
その後、ハワイ島の中でさらに二度引っ越しました。(殆ど趣味w)
夫婦合わせる(合わせなくてもいいけどw)と、引っ越し回数はものすごい数(二人の両手合わせても足りない)でございます。www
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