真理は自然の中に在り

真理は自然の中に在り

『精神文明と奇跡』

政木和三

第5章 病気とは

病(やまい)は氣から

※『 真理は自然の中に在り 』 marisco さんのブログよりご紹介

 病気という文字は気を病んでいると書く。もしも、肉体だけが患(わずら)っているものであれば、昔の漢字を造った人は、病気という言葉は作らなかったかも知れない。

 大昔の、科学文明の低い時代の判断の全ては、精神的によってなされたために、漢字の決め方も精神面を重んじられたことであろう。

 しかし、現在一般に使用されている漢字の熟語の中には、科学的に考えても真実を示しているものが多い。

 病気になれば、医学的な診断と治療に頼らなければならないことは当然の理であるが、病気の中には、肉体的には何ら疾患部を認められなくても、本人は病気だと信じ、その症状も病気らしいものとなることがある。気の持ち方によって、健康な人も病気だと思っているうちにほんとうの病気になってしまうことを次の実例が物語っている。

 筆者は五十歳台まで強情な人間であり、人の意見を全く受けつけない偏屈者であった。そのために、自分の考えが絶対的に正しいと信ずる気持が特に強く、一度思い込めば、“すっぽんと雷”のたとえ以上のものがあった。

 これは筆者が三十歳台の実話である。

 胃の調子が悪いので、医学書を読むと胃潰瘍の症状にピッタリであった。その日から胃潰瘍的な症状がますます強くなり、毎日、今日は吐血するか、明日は出張先で倒れるのではないかと、毎日々々が心配の連続であった。そこで思いきって、友人のいる大阪大学医学部のレントゲン科にゆき、診てもらうことにした。

 『私は胃潰瘍だから調べて下さい』と、自分で病名を作ってレントゲン台に上がった。写真は、正面、横、後面と多面にわたって写したが、その医師は、『どこも悪くないようだけれど……』と、ひとりごとを言っていた。それにもかかわらず私は、『間違いなく胃潰瘍だ。もっとよく調べてほしい』と要求した。それからまた数枚の写真が撮られた。そして、『どこも悪くない』と、はっきりした答えがあった。

 『そんなはずはない。確かに私は胃潰瘍になっているのだ』と、なおも強情に言い張った。 医師は、『それではあなたは胃潰瘍だと言ってほしいのですか』と、怖い顔をして私に聞き返してきた。

 そこで、『別に胃潰瘍だと言ってほしくないが、自分でそのように思っているから……』と答えると、医者はたたみかけるように、

 『それでは、私の—医者のいうことを信じなさい。専門の私の言うことには間違いはないのだから……』と強い調子で言ってくれた。その瞬間、私の胃の付近が軽くなったような感じとなり、レントゲン台からおりた時には完全な健康体のような気になった。それからは胃潰瘍の自覚症状は完全に消滅してしまった。

 私はそのころ、このように非常に強情で、我が強く、他人の言うことは全く聞かなかった。

 テニスの審判をやったとき、セーフかアウトかのきわどいボールに対してセーフを宣言した。相手の側から抗議が出てきた。そのとき、私の友人が、『政木さんが一度宣言すれば絶対に変更はない。言うだけ損だよ』と、たしなめている声が聞こえてきたことがあった。

 このように、一度自分でこうだと思うと、絶対に譲らぬ人間性であるために、自分の身体に対しても、一度そうだと思うと信じ込み、自分をほんとうの病気にしてしまうくらいであった。

 そのようなことがあってから二年後に、今度は蓄膿症にかかった。これも自己診断であったが、症状は完全に合っていた。そこで、阪大病院の耳鼻科部長に診察を求め、『私は蓄膿症ですから診て下さい』と言うと、病名をつけるのは私の方のすることで、患者のすることではないとたしなめられた。

 診察の結果は異状なしであった。しかし、また例によって、『私は間違いなく蓄膿症です。もっとよく調べて下さい』と無理にお願いすると、『それでは仕方がない、麻酔をかけてやりましょうか』と……。

 少し麻酔が効いてきたとき気持ちが悪くなったので、『もう結構です、やめて下さい』と、ベッドを降り、その翌日、町の専門医のところに行きまた同じようにお願いした。

 その医師は注射器で鼻の深部から液を抽出して、『異状ありません』と、きっぱりとした返事があった。その日から、蓄膿症は完全に治ってしまった。

 その後日、工学部の教授が耳鼻科部長に会ったとき、『工学部には変わった人間がいるよ、自分で病名を作ってきて、それを私に認めよと言う。ちょっと変わってるね』と、言われたとのこと……。その話を聞いて私は顔がまっかになった。それからの私は、自分の身体を自分で悪く思わないようにしてきたものだ。お蔭で今日六十三歳でも、非常に健康で毎日を過ごし、ゴルフをしても、山で竹の子を掘っても、つかれを知らぬほど元気になった。

 ある会合のときの医者の話。

 『私達三人の医者が口を合わせれば、どんな健康な人でも殺すことができる』と。

 第一の医者のところで、あなたは非常に悪いから注意しなさいと言う。そして第二の医者を紹介する。その医者は、さらに悪くいう。そして心配だから第三の医者に相談するように紹介する。第三の医者が決定的な診断をすれば、その健康な患者はほんとうの病気になり、数日後には死ぬでしょうと……。

 このように人間は、「気持ち」の持ち方によって健康体も病気となる。これは何を意味するのだろうか。肉体だけではこのようなことは起きないだろうが、肉体を制御している支配者、すなわち第一生命体のためではないだろうか? 第一生命体は幽体ともいわれている。病気は幽体が悪くなった場所の肉体が悪くなり、そこが病気となるのかも知れない。

 実験によれば、催眠術のよくかかった人の手に万年筆を近づけ、『焼け火ばしを手に当てます』と、言いながら手の甲に当てるとその部分に水泡が発生する。このように、熱くなくても思うだけで火傷ができることは、肉体的ではなく、幽体が火傷をしたと思うから、肉体に水泡ができるものと思われる。

 『病は気から』のことわざは、数千年も前に造られた言葉ではあるが、その中には真実の意義を含んでいるのかも知れない。

 ある有名な占い者が、自分の死期を予言してその日に死んだ。この占い者は信念を持っており、自分の予言には絶対の自信があったが、その信念が自分をその日に殺す力となったものである。

 痛み止めの注射の代用に、ビタミンC液を注射器に入れ、『これ一本で手術の痛みは止まりますよ』と言いながら注射すると、瞬間に痛みを止めた名医もいる。痛みも気の持ち方によってどうにでもなるものらしい。

 同じことを若い医者がやっても痛みは止まらなかったという話もある。

 このようなことから、自分の肉体に悪いところがあれば、医師の診断を仰ぐことは当然であるが、決して医者の言葉よりも悪く思うものではない。必要以上に心配すると、それがストレスとなり、体に悪い結果をもたらす。ストレスは本来、生体に外傷、中毒、寒冷、感染といった刺激(ストレッサー)が加わったとき、体がその刺激に適応しようと努力するためのものであるが、それが適応できない場合、刺激の種類には無関係に、強烈に反応する状態をさしているものである。

 しかし一般には外傷ストレスとか精神的ストレスというように、生体に加わる刺激も含まれて使われているようである。

 胃粘膜を観察すると、恐怖とか悲しみの状態にあるときは、胃液分泌や胃の運動が低下し、胃粘膜は蒼白(そうはく)となっている。また怒りや攻撃的な状態にあるときは、胃液分泌、胃の運動は盛んとなり、胃粘膜は充血する。この状態が長く続くとしばしば出血やビランが認められることがある。このようなことから胃腸病の原因は神経性であるといわれるものである。心を平静にすることが病気を治す最高手段である。

 患部は患者自身の精神力と体力で治すものである。医師は手術をして悪い部分を取り除いてくれるが、その後を健全な形に復元する力はあくまでも自分自身である。どんな名医でも悪い部分を治してはくれないのだ。

そこで心の中で、

 『自分自身の生命体よ(守護霊よ)

 自分の体に悪い部分があれば

 光を入れ 調和をとって下さい

 と、自分自身にお願いすることである。

 自分自身に願うことは欲望ではない。欲望のない願いは大きな成果を生むことができる。

上記、私の尊敬してやまない政木和三先生のご紹介をされているmariscoさんのブログから一部ご紹介させていただきました。歳を積み重ねていくと、何よりも健康が大事と思ってしまうのは誰しもだと思うのですが、ここ数年はおかしな世界に突入したもので、ただの風邪だと言ってただ寝ていることもままならない。心すら貧しく哀しい世の中となりました。

やれ、COVID-19 だったら大変!? PCR検査をしにいこう!人にうつしたらどうするんだ💢…等と、家族にすら怒られる始末です。少し熱が出たくらい寝ていれば治ると誰もが優しく許容範囲があったはずの少し前の時代が懐かしくおもいだされます。

風邪をひいてしまったら大事に騒ぎ立てず、自分の判断で養生すればいいと私は思います。もちろん肺をヒューヒュー言わせてぜいぜい咳き込み瀕死の状態の場合、無茶をしないよう普段から自分の判断力を磨いておくことは言うまでもないことです。

やまい(病)かな?と思ったら気持ちをしっかり持ち、政木先生のおっしゃるが如く、

 『自分自身の生命体よ(守護霊よ)

 自分の体に悪い部分があれば

 光を入れ 調和をとって下さい

私は、寝床でそう唱えることにします🤗